

この線路を渡り、毎朝お豆腐を買いに走りました。
そのお店で、1円の飴をふたつ買いました。私と弟…….
この踏切の右向こうにT理容店があります。店内はとても良い匂いでした。
ふさふさとした白い毛の犬がしっぽを振って出迎えてくれました。
父の散髪がすむまで、この空間で待つことが好きでした。
この踏切の左向こうにM郵便局があります。
その手前には、線路沿いに赤い煉瓦の坂道がありました。
その坂の途中には玉垣の木々で仕切られた社宅が立ち並び、奥にはテニスコートがありました。
その坂を上りつめると、尚一層、樹木につつまれた高級な社宅街がありました。(二枚目の写真)
各庭は敷地が広く、様々な庭木が繁っていました。
その社宅の街路に、桜の木が満開に咲き誇っていた頃、
母に手を引かれ仮縫いの為、社宅街の一画を訪ねたことがあります。
女中さんが、私の足を木桶につけて丁寧に洗ってくれました。
人の気配はするのに、とてもひんやりとした静かなところでした。
母を待つ玄関先での時間は、とても長く感じられました。

この写真は、星越の選鉱場から撮っているようです。
この小高い山の下にはトンネルがあり、抗夫が乗ったかご電車と鉱石を搬出する電車が通っていました。
その電車はそこから右へ数百m進むと一枚目の写真の踏み切りを通り、新居浜中の各駅を回り 走っていました。
どこに行っても目に付くその線路の最果ては「端出場に通じる」と聞かされ、
「別子銅山の入坑口はどんなに活気があふれ、たくましい人達の集まりなのだろう」
と 子供心に思っていました。
昭和47年の銅山閉山まで、少しづつ不安がよぎりました。
「ある坑道が閉鎖される」と 子供の耳にも入るようになった頃、
また一本、また一本と線路が不通になり、駅も無くなり………..
私の家族は、この写真の景色から少し遠い町に引越しました。
今でも市内各地に線路跡の名残があります。塞がれた線路下には、黄土色の水が流れているそうです。
活気あるものが…..断固として揺ぎ無いものが…..目の前で変わっていきました。
子供心に切ない思いを覚えています。
現在の新居浜太鼓祭りを見ていただいたでしょうか、新居浜は力強く生きていますよ!
「財力」・「腕力」県下どちらの市にも負けませんよ~!
私は、新居浜が大好きです。


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