どなた様もご存知無いと思いますので打ち明けますと、
昔、私はとっても真面目人間でした。
仇名ですら
“あの真面目な○○○○(氏名)さん”でした。
長い!
曲がったことが許せない そんな私を揶揄した仇名だったのでしょう。
本人としては、許せないのではなくて、何らかのお約束の中でこじんまりとして居たかった だけなのです。
私を目の前にしても、“あの”からはじまる非常に長い仇名を皆さま平気で、毎回代名詞にして呼んでくれます。
自分では気づかないうちに、傷付けた人が居たのかもしれません。
迷惑を被った人も居るのかもしれません。
あっ!それは、置いといて。
遠い昔、スマホを持って検索!っていう時代では無かったから
不思議に思うことや わからないことは何日も掛けて考えていた節もあります。
一期一会の心構えも 現代の若者より良〜く承知していたのでは無いかと思います。
一生に一度の出会いであるかもしれないということを心得てて、誠意をもって尽くしていた感があります。
目の前の何気ない人の言動が私の未来を変えてくれるかもしれない。偶然のようで実は必然なのよ!
って。日々の出遭いを大切にしていました。
あっ!また また それも置いといて。
ハタチの頃、血気盛んだった私は
無情だと思ったり 腹立たしかったり 悲しかったり そんな心持ちになると
よく呉服屋へ立ち寄っていました。
店主は、私の話を黙って聞いてくれるのですが、
その終盤には必ず
「私は、あなたを許します。あなたは、私を許します。と、3回となえてごらん。」と、言うのです。
あれっ?
私は悪いことをしていないのに なんで許しを乞うの?
と、腑に落ちないのですが、3回つぶやき帰路につくのでした。
幼い頃から無関心や忘却で紛らわせていたことが、そうでは居られなくなった頃でした。
モヤっとしていた感覚が言語化されていくこの時間 を大切にしていました。
“自分が今、何を思い、何を感じているのかを自覚する事の大切さ”を 店主は教えてくれました。
この繋がりを壊したくなかったのでしょう。
何故か、この言葉通りにすれば浄化できる気がしたのですから不思議です。
人は苦しむ為に生きている訳ではないのに 当時の私は不安になり、そして、人を責め、笑顔の奥に刃を包み隠している人間なのだと、自分をも責めていました。
その苦しい時間が数年で消えたのは、呉服屋の店主のお陰なのかな!と、思います。
店主に出逢わなければ、何年も何年も迷っていたのかもしれません。
“刃を消して心を楽にする” それを教えてくださったのですね。
ありがとうございます。
今夜もBlogを徘徊していて気付きました。
“幸せのこころとかたち上田祥広”Blogの記事
「不安なのに気付かない」
「自ら刃を生み出している」
を拝読していて
昔むかしを思い出しました。
上田先生 ありがとうございます。
古き良き時代に生まれて良かったわ。
ググルっていう今の時代は、年わかい私には、あらゆる面で毒牙だったかも知れませんね。
人と向き合うことに臆病で、
検索をして思い考えて理解をしたとしても、
ふわっとした状態のままで実践できずに、
結局時間が経つと忘れてしまう
と、言うような・・・

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