新居浜太鼓祭の日

バラ

祭り初日(16日)。

朝、喉が痛いと言っていた長男は、青年部員としての役を務めた夕刻には熱が38度、測るたびに上がり39度まで上った。

医師会病院へ連れて行った。新型インフルエンザではないようだ。

長男は医師の診断に安堵しているようだった。

その夜、息子が呼ぶ度、ダカラの飲料水をコップに注いで2階へ上がった。

17日早朝。

長男は、熱があるにも拘らず法被姿で出て行った。

それを夫に伝えるが、無言で茶を飲んでいる。

うろたえている私に

『あんたは今日、何をするんぞ。』

「わたし?…河川敷へ行くよ。」

よからぬ気配は感じていたけれど・・・。

『本郷と澤津の最終戦があるぞ。』

と、ぽつり。

「最終戦?」

『前回、本郷vs澤津は本郷の地元だった。次なるは澤津の地元で!今後、双方は、鉢合わせをせんという約束じゃ。』

「で、どこで?」

『労災病院前より東じゃろ。』

と、はっきり言った。

私は身支度を整えて、運営委員の同士の迎えを今か今かと待っていた。

夫を送り出した後、私は息子達を案じて、自転車を立ち漕ぎしてぶっ飛んで行った。

・・・・・そして、本郷vs澤津

詳細は、先の “あっぱれ!” 記事・・・・・・

17日夜。

『悔しい。本郷、カッコ悪い。気持ち悪い

と、誰よりも先に帰ってきたター坊(次男)が言った。

「本郷はやっぱ、まとまってすごいな!とか思わんかった?」

と、私・・・。

『・・・・・もっと行けや おもた。』

「若輩者じゃのう!」

と、ター坊(次男)にカツを入れた。

「母さんは、名勝負だと思う。相手を尊重しあう二台の太鼓台は、どっちもカッコえんじゃわね。」

17日深夜、ドンドンと壁を叩く音に何度も目が覚めて2階へ上がった。

澤津戦の祭りを全身で堪能して帰ってきた長男は、既に40度を越えていた。

飲料水を息子に与えた。全身の汗にびっくりした。肌着も2度着替えた。

18日最終日の朝。

「出来るだけ安静にしなさい。」

と言う私の願いを聞かず、長男は飛び出して行った。

脳炎を発症し気がふれてはタイヘンだ。と案じていた私の思いなど。意に介していない。

風邪の菌を撒き散らしながらの祭り三昧。

世間様に申し訳ない。もぉ~まったく無礼千万!

18日夕刻。

娘の振り袖を座敷に吊るし、草履カバン髪飾りなどの小物を片付け終えて、さぁー、八幡神社へ行こうとした時。

ター坊(次男)がヨレヨレしながら帰ってきた。それも町の法被を着て!

「酔ってる?」

『ちがわい!!激怒メシ!風呂!』

と、力無く搾り出すような声で言う。

よくよく見れば、裾が破れドロドロに汚れたニッカズボン。靴下も破れ素足に近い状態。

「地下足袋は?」

『なくしたぁー。』

本郷vs澤津に飽き足らず、町vs田の上を参戦した様子。

晩ご飯を食べながらようやくしゃべり出した。

『もぉー、ええ 。困った 鉢合わせ30回位までは数えよったけど、ええ加減やめんかおもた。ガマン

『母さん、あれは100回ゆわん ぶつかっとるよがっかり。』

『鉢合わせの最中、地下足袋の留め金がだんだん外れて、踏まれてけつまづいて何度もこけそうになった。困った

・・・・・・・

「よぉー生きとったね。」

と、私は安堵した。

「昨日は、もっと行け行け言よったのに、今日はもうやめよ思ったんかね。」

と、嫌味も言ってやった。

「本郷以外の太鼓は触ったらイカン。綺麗な喧嘩なんか何処にも無いけど、正々堂々と裸の喧嘩じゃけん母さんは目をつむっとったんじゃ。」

と、真剣に怒った。

その直後、実弟の訪問で阿島vs松神子の鉢合わせの真相を知り常識やルールの無さに困惑し、私の仰天は尚も続いた。

嵐のような祭りはもうコリゴリ!

再来年からは楽しく宮入りして、綺麗な太鼓を楽しませてね。

お疲れ様でした。夜

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あっぱれ!

潔く認めます。今回、澤津に負けました。

21年10月17日

薬局前、澤津との鉢合わせで本郷の鎧が外れた。19年とは真逆の鎧の差だった。

130㎏の重い鎧が強いわけではない。留めていたボルトが千切れたのだ。そこに本郷の誤算があった。

太鼓が鳴らなくなったほうが負けという喧嘩祭り。鎧はその太鼓を守る為の盾の役目。

激しいぶつかり合いが尚も続いた。

鎧が外れた今、本郷は大人3人の手でひょいっと太鼓を持ち上げ、澤津の担き棒を交わし激戦を繰り広げた。

敵陣に踏み込み地味な坂を押して押して頑張った本郷太鼓台に部があるようにも見えたが、

もうこの時点で勝敗決まりでしょう!

「鎧がのいたけん待ってくれ」と言う本郷。

「鎧がのいたんだったらこっちもはずそか?」と言う澤津。

待たす本郷と待ってくれた澤津。

「重たい~~。う、う、そこのけ。そこのけ。」

と、大人4人がよろけながら鎧を運び、私の目の前を通った。

もう一度鎧を取り付け、双方数回勢いよくぶつかってみたものの それはまるで握手をしているかのように感じた。

私にはそう見えた。

勝敗決まりだって!!

負けを認め去っていく本郷。

追い掛けることなく新高橋の中腹で本郷を見下ろす澤津は、悔しいけれど武将の如くカッコよく見えた。

太鼓を割るまで戦ったとしたら人と人との喧嘩になるだろう。此の上無い遺恨となっただろう。

人間の小競り合いを直ぐに止めに入る両自治会も立派だった。

民家や担き夫に怪我がないように采配していた本郷と沢津の指揮者も立派だった。

良い戦いを見せてもらった。

喧嘩は悪い!絶対、両者とも悪い!

それを承知で血が騒いでどうしようもないのなら・・・太鼓台の喧嘩は当然こうありたいものだ。

18日夜、実弟が訪ねてきた。阿島の担き夫であり、アンチ本郷の人間だ。

阿島と松神子の戦いを語ってくれた。

無惨な戦い・・・。弟の無念が手に取るように分かる。

50cmの鉄のキャップ vs 10cmの鉄球端冠、その鉢合わせの真っ最中、松神子が手のこぎりで阿島の担き棒切断!

真実を知り、幾度も相槌を打ったが、その戦いをこれ以上書き記すこともない。

殊更、破壊目的ではない澤津の姿勢にあっぱれ! と、再度感心した。

後腐れの無い本郷と澤津の戦いぶりを書き記そうと、

本日、高松駅を出て出張からの帰り道、電車に揺られ決意した。

再来年からは、平和運行の祭りが出来そう。

あー、天晴れ!

鉢合わせの惨事

あくび
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祭り前から太鼓台の喧嘩(鉢合わせ)は予想されていました。

数年前からの小競り合いや、長い年月を経ての因縁などでしょうか?

16日は、川東地区の宇高太鼓台 vs 白浜太鼓台。

18日は、川東地区の本郷太鼓台 vs 澤津太鼓台。川西地区では大江太鼓台 vs 西町太鼓台が鉢合わせをしました。

太鼓台の喧嘩は、川西地区と川東地区では、質も内容も全く違います。

でも、双方ともどの場も周りの観衆を巻き込んで多くの惨事となりました。

冷静で賢明な鉢合わせは、出来ないものでしょうかね。

あ~~~無理なんでしょうね。

わざわざ理由をつけて、小競り合いから喧嘩へとエスカレートさせているのですから。

不思議な世界ね!

鉢合わせには、かき夫の怪我はつき物ですが、お怪我をなさった方のご家族の皆様の心中をお察しいたします。

我が家の長男もその内の一人です。

沿道に置き去りになった真っ赤な血だらけの日本手拭を見た時、ふと息子が気になり、

喧嘩道のあちらこちらに散らばる木片を見ながら、更に心配になってきて、

急いで自治会館へ行きましたが息子の姿は無く、不安一杯で・・・、

単なるかき夫Aである息子が病院へ運ばれたことを知った時は、頭が真っ白になり私の胸は張り裂けそうで・・・、

「 足がある。首が付いている。」

と、病院で息子の姿を観た時は安心し・・・、

怪我は、唇が裂けパックリ開いた口元のみで、形成外科医が丁寧に縫い合わせてくれたと聞き、ただただ合掌し・・・、

「太鼓の鉢合わせで、人様のパンチを食らうとは もってのほか!ドン臭いんじゃわね!」

と帰宅して叱り・・・、

息子は一発目の突撃の時、棒端の紐を持ち相手の太鼓台に向けて突進したと聞き、あまりの無鉄砲さに

「 大ばか者~~~!」

と、尚怒り・・・、

その突撃後は、相手のかき夫に取り囲まれ袋叩きに会いながら反撃し、やっとのおもいで抜け出したコトの説明を聞いた時、紳士で無い相手に腹を立て・・・、

そうでしょ!太鼓台の鉢合わせで、暴力行為は許せないわ!見事な戦いぶりだと思っていたのに・・・・・、

その相手は法被を着ていない外人部隊であったことを知らされて、少し気が静まり・・・、

「 あなたが真剣に太鼓に向かっていたら、外人部隊に目をつけられることはなかったんよ!」

と、また息子を叱り・・・、

私の思いはあれこれ忙しく巡り、Blogの執筆意欲を無くすほど、気が臥せて苦しい思いをしましたよ。

Blogもぼつぼつ潮時かなぁーと考えたりしましたよ。

激しい喧嘩は、平成元年以来だからと気を取り直し、やっと、書き込みと相成りました。

今では、この遺伝子は、誰からのものか???と自問自答し、あきれ果てている次第です。

画質は良くありませんが、鉢合わせフォトを載せますね。

観衆の合間から身を乗り出して撮りました。背が欲し~いと切に思いましたよ。

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澤津のかき棒が・・・

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しおれたバラ
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